誰かここから私を連れ出して。
声にならない叫びをあげる。
帰りたいの。みんながいるあの場所に。緑豊かなあの場所に。
うな垂れた頭をゆっくりと持ち上げて自分の身体を見回した。
そこにある数々の傷跡が否応なしに私の目に飛び込んでくる。
それはサンプルだといわれ血液や体毛、皮膚の一部を無残にも奪われた跡。
鈍く光る刃物がゆっくりとこちらに近づいてきて、突き刺さり、破いていく感触はまだ生生しく肌に残っている。
自慢だった翡翠色をしている長く光沢のある綺麗な毛も、艶を失いボロボロになりひどく惨めな状態になってしまった。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
悪いことなんて一つもしていなかった。ただ平和に歌を歌いながら、みんなと楽しく暮らしていただけなのに。
安らかな日々は、ある日突然幾人かの人間の手によって奪い去られた。
身体を散々いじくりまわされ、あちこち連れまわされた後、今は24時間監視カメラが回る小さな部屋に閉じ込められている。
毎日、規則的に与えられる「餌」はろくに喉を通らず、弱りきった身体と虚ろな目をした自分がモニター越しにぼんやりと映る。
そこには情けなのかなんなのか分からないが、偽の森や川が延々と映し出されている。
そして、その向こう側に私を監視している人間たちがいることにも気づいていた。
力なく佇む私を見て「まるで囚われた歌姫だな」と誰かが冗談気味に呟いていたのも知っている。
誰かここから私を連れ出して。
窓の外に広がる自由な世界への渇望は、しかし誰にも聞き入れてもらえない。
もう歌を歌う気力さえ起きなかった。
あんなに歌うことが好きだったのに。
狭い「鳥かごの」の扉は一生開くことなどないのだ。
当たり前だと思っていた大空も、当然だと思っていた緑の森も、今では手を伸ばしても届かないはるか遠くの場所。
生きているの死んでいるのかもよく分からないまま、私は濁った目で俯き自分の影を見つめた。
もうあの空の下で歌うことはできないのだ。
心の中を渦巻くやり場のない感情はどんどん膨れ上がり、黒い影に吸い込まれていくように思えた。
そのとき自分の影が一回り以上大きな影に飲み込まれる。
驚いて声上げるより早く、私の口が白い手袋に包まれた手に塞がれる。
振り払おうにも身体も拘束され、ほとんど身動きがとれない。
「騒がないで、静かに」
身動きする私に誰かが耳元でそっと囁いた。
全力でもがけば振り払うことはできるのだろうけど、それができるほどの力が今の私には無かった。
仕方なしにおとなしくしていると、声の主は私に暴れる気配がないと判断したのかゆっくりと拘束を解いた。
身体が解放された瞬間、振り向いて声の主を確認する。
そこには白衣に身を包み、金色の髪をオールバックに撫で付けた端正な顔の青年が立っていた。
モニターの向こう側にいる人間と同じ格好に、私は条件反射で身構える。
また何かされるのか。頭の中に浮かんだの今までされてきた数々の仕打ち。
伸ばされた手に私はとっさに目をつむる。
だけど、その手は私の頭を優しく撫でただけだった。
「安心して。君を助けにきたんだ」
恐る恐る目を開けると、青年は何もしないと両手を上げて降伏のポーズをとった。
その白衣からは禍々しい薬品の香りではなく火薬の匂いが漂ってくる。
「あなた、誰・・・?」
震える声でそれだけを尋ねた。
「僕は、そうだな、Lと呼んでくれ」
「エ、ル・・・?」
「まあ、仕事中の名前みたいなものさ」
澄んだ、それこそ私が望んだ青空のような瞳で私を見て微笑む。
その笑顔に先ほどまでの警戒心がゆるやかに解けていく。
彼はそんな私を確認すると、急いで白衣を脱ぎ捨てブラックのワイシャツにサスペンダー、それと白いネクタイという出で立ちになった。
そして一緒に持ってきていたハードケースを床に置き、その中のサブマシンガンを素早く組み立て始めた。
さらに手榴弾や換えのカートリッジを身体のあちこちに慣れた手つきで装備していった。
「仕事って・・・?」
「君をここから連れ出すことさ」
最後に弾丸をきっちりと詰めた小型のハンドガンを腰のホルダーに差し込む。
「心配しないで、ここから出たいんだろ?」
不安げな顔をして彼の一挙一動をじっと見ていた私に余裕の笑みを向けた。
そして、耳につけていた小型のインカムに手を伸ばし通話ボタンを押した。
「あ、もしもし俺。うん、ターゲットには接触できた。うん、そうこれから。わかった。ああ、じゃあ1分後に。」
無線の向こう側からははっきりとは聞き取れないけど、罵倒するような女の人の声が聞こえてくる。
そのせいか受け応えているLは少し苦笑気味だ。
彼もそうだが、彼女も一体どうやってここまで来たのだろう。
この建物はセキュリティがかなり厳重なはずだ。
ドアを一つ開けるにもシリアルナンバーが必要だし、ガラスは全部強化ガラスだ。
建物のあちこちに監視カメラだって付いている。
「逃げるなんて無理よ。この施設のセキュリティは尋常じゃないんだから。ここだってすぐ人が駆けつけてくるわ・・・」
「それなら今は違う映像が映ってるから大丈夫だよ」
「え?」
「僕の相方はなかなか優秀でね」
白い手袋を脱ぎ捨て、狙撃向きのグローブをはめながら彼は茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
その時、施設のどこかで轟音が響き渡り、部屋が軋むように揺れ、わずか数秒後に避難警報が建物全体に鳴り響く。
「まあ、ちょっと手荒なのが難点なんだけど」
突然の爆撃音と緊急を知らせるサイレンの音にわけも分からず慌てふためいていると、
「きゃっ!」
Lが私の身体を軽々と抱き上げた。
「さっ、行くよ。僕から離れないでね」
綺麗な空色の瞳で私を見つめながらLが言った。
内心は驚きと焦りでいっぱいだった。だけど、この「鳥かご」から出られるのなら。
それだけに希望を託して、大人しく彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
「いいこだ」
と彼は私の耳元に囁くと、軽々とした足取りでこの「鳥かご」から飛び出した。
薄暗い通路に小気味良いリズムの足音を響かせながら、Lは複雑な施設の中を一瞬も躊躇わずに走っていく。
窓は一切なく、光源は一定間隔である小さな非常灯のようなものだけだ。
お陰で今何階にいるのかさえわからない。
しかも先ほどの爆発で施設内がざわめいた雰囲気を放っているにも関わらず、誰か他の人に出くわすこともない。
この施設にはそれなりの数の人間がいるはずなのに。きっと彼の頭の中には人通りの少ない経路が完璧にインプットされているのだろう。
「そういえば、相方は大丈夫なの・・・?」
ふと、思い出してLの相方について聞いてみた。
その相方である人は無事にここから抜け出すことはできたのだろうか。
Lの「ちょっと手荒」という発言から、あの爆発を起こしたのはきっと彼女なんだろうと察することはできる。
だけど、かなり大きな爆発だった。怪我とかしていなければいいんだけど。
「リ…いや、Rなら平気だよ。彼女なら正面玄関のほうで敵の気を引いてくれてるはずだ」
心配してくれるなんて君は優しい子だね、そう言いながらLは相方のことを案外楽しそうに話してくれた。
Lに対してRというコードネームを持つ彼女は銃撃戦より肉弾戦のほうが得意らしく、ちょっと人より堪忍袋の緒が短いらしい。
「だけど基本的に冷静で対応も的確だよ。怒らせたらこわいだけで」
苦笑しながらもLの顔は自信に溢れていて、Lが絶大な信頼を寄せるRのすごさを垣間見た気がした。
肉弾戦が得意ということはやはり逞しい感じなのだろうか、と勝手にRの人物像を勝手に想像していたときだった、
廊下の突き当たり、T字路に出る直前にLが急に止まった。リノリウムの床がキュッと軽く鳴る。
素早く左側の壁に寄りかかると胸ポケットから小さなミラーを取り出し、通路の先を確認しだした。
そのミラーの中には黒い服を着た集団がちらちらと映りこむ。
ふぅっとLが息を吐き、ミラーをしまった瞬間、
「いたぞ!!」
走って来た方向から声が上がる。
振り返れば、遠くのほうに先ほどミラーで確認できたのと同じような黒服の集団がこちらに向かって走ってきていた。
その手にはサブマシンガンが握られ、ご丁寧にボディアーマーまで着込んでいる。
その武装集団を見て、今までどこか余裕のある表情だったLが初めて顔を歪ませた。
「少し急ぐよ」
一言だけ言うとLは壁から身体を離し、T字路を勢いよく右に曲がった。
先ほどよりスピードを上げたため、身体がLの走りに合わせて上下に揺れる。
離すまいと掴んだ指にも自然と今まで以上の力が篭もる。
しがみついていたLの肩越しに後ろを見てれば、追っ手との距離が予想以上に縮まっていた。
「Lっ!」
思わず叫んでしまうと、Lはちらりと後ろを振り返ったものの、何も言わずさらにスピードをあげた。
敵も銃を持っている。その上ここは障害物のないまっすぐな通路だ。
この距離なら撃たれたらまず間違いなく致命傷だ。
相手が持つ重厚なサブマシンガンに、背中があわ立つのを感じた。
突如、身体が横にブレたと思ったら、通路の途中にある狭い談話室にLが滑り込んでいた。
Lは瞬時に体勢をたて直すと、担いでいたサブマシンガンを握り躊躇いもなく撃ちだした。
いきなりのLの反撃に前衛にいた敵はその場に倒れこむ。
だが、サブマシンガンであるのとボディアーマーのせいでさして致命傷は与えられていないみたいだった。
Lもそのことは承知しているようで、最初から正確に足だけに狙いを定めている。
しかし、不意を打てた最初と違い、後方の控えていた敵は簡単にはいかない。
容赦なく降り注ぐ弾丸と硝煙が辺りに立ち込める。
「やっぱりただの研究所じゃないな」
談話室の内側に立て篭もり、攻防を繰り返しながらLが呟いた。
「えっ?」
「ただの研究機関にこんな武装集団がいるなんておかしいだろ。ま、そっちの方が手加減しなくていいから楽なんだけど」
そう言うと彼は手榴弾を取り出しし、ピンを引くとそれを思いっきり敵に投げつけた。
派手な爆発音と共に周囲の空気がビリビリと振動する。
周囲の壁や床の破片が煙と一緒に舞い上がり、目や喉に痛いほどしみる。
その煙が収まる前にLは再び私を抱き上げると、談話室を出て先を急ぎだした。
微かに目を開けて後ろの様子を見てみれば、崩れかけた壁とそこに倒れこむ武装集団が確認できた。
「こんなのは一時しのぎに過ぎない。なにせやつらは数だけは多いからね」
「いつも、こんな仕事をしてるの?」
こんな‘危険’な仕事という言葉を飲み込んだ。
一歩間違えれば命を落とす可能性だって十分にありえる。
「うーん、時と場合によるね。」
おっとりとした口調でLは答える。
慣れた手つきに余裕のある顔。
彼が死線をくぐり抜けた回数は私には想像つかなかった。
「まあ、君らみたいなこを助けるのが僕らの使命だから。」
付け足すように、だけどきっぱりとLが言った。
その言葉に私の身体が震えた。
最初ここから逃げ出せるはずはないと思っていた。
だけど、今ならそんなことは思わない。
Lついていけば大丈夫。またあの広い空の下にいける。
この悪夢みたいなリアルに終止符が打てるのだ。
そう考えたら涙が出そうになったので慌てて目を閉じた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、Lは何も言わずに優しい手つきで背中を撫でてくれた。
その後もLは出くわす敵、Lに言わせると「ただの雑魚」、を華麗に薙ぎ払いながら出口を目指した。
幸いにも集団にはあれ以上出くわさなかったこともあり、身体に装備した弾が粗方無くなった頃には、目的の場所にたどり着くことができた。
「さっ、もうすぐゴールだよ。」
静かに床に下ろされ、初めてきた場所に私はきょろきょろと辺りを見回す。
そこ普段は使われていないであろう非常口の前。上には弱りかけた誘導灯が点っている。
Lは重たそうな扉の横に備え付けられている電子ロックのテンキーを軽快に叩く。
その時、
「見つけたぞ!」
後ろから怒声が聞こえ私とLは同時に振り向く。
そこには施設内を走り回っていたのか、埃まみれの白衣を着た男が一人拳銃を構えていた。
「そいつは我々のものだ」
荒い呼吸をしながら、男はクイッと顎で私を指す。
上から目線の口調と、薬品の染み込んだ白衣姿に忌々しい記憶がゆっくりともたげる。
恐怖にぎゅっと身体をちぢこませ、Lに寄り添う。
「さあ、そこに置いていってもらおうか」
「やだね」
一言Lが断言すると、勢いよく床を蹴り、男に向かって走り出した。
「なっ・・・!」
慌てた男が銃を撃つが、武装集団と違い日頃から射撃の訓練はしていないのだろう。
狙いは甘く、Lは簡単に弾丸を避ける。外れた弾は天井に黒い穴をあけた。
「慣れないものを振り回すな、レディに当たったらどうする」
素早く腰のホルダーからハンドガンを引き抜き、トリガーを引く。
金属がぶつかる甲高い音が通路に響き、男の手から拳銃が弾け飛んだ。
それとほぼ同時にLは男の懐に飛び込み、グリップで力いっぱい男の顎を殴りつけた。
骨が軋む鈍い音がし、男が床に崩れ落ちた。
あまりに速く、鮮やかな動きに私はただ目を丸くして見ているだけだった。
「肉弾戦は得意じゃないんだけどね」
そんな私にLは肩をすくめながらウィンクしてみせた。
こちらに戻ってくるとLは再びナンバーを入力していった。
しばらくすると電子ロックの解除音がして重そうな扉がゆっくりと開く。
その扉の向こうには錆びた鉄格子のような非常階段があった。
「あっ・・・!」
外の風が一気に流れ込んできて、私の顔を優しく撫でる。
心地よくて懐かしい感触に、ふらふらと、まるで蜜に誘われた蝶のように階段の踊り場に出ると、錆びた柵に身を預ける。
「まだ無理だよ」
無意識に力をこめた身体をLにやんわりと掴まれ、強制的に柵から離される。
「でもっ・・・!」
空が、太陽が、風が私を呼んでいる。手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに。
そんな私を見て、彼は静かに首を横に振ると、高さ2メートルはある城壁に囲まれた施設の外を指差した。
木々の隙間から茶色い荒れた道路が見える。
「あそこに車が見えるだろ?Rがそこで待ってる」
目を凝らすと確かにそこには黒い車が一台止まっている。
「そこまで一気に行くよ」
「え、どうやって?」
人間には空を飛ぶ翼なんてないのだ。ここから車まで結構距離がある。
その時、もの凄い速さで何かが私の視界の端を横切った。それは施設の壁に当たると、甲高い音をたてて鉄製の足場に落ちた。
「これを使ってさ」
ひょいと、Lがそれを持ち上げて私に見せた。今横切ったものは先に重石が付いた頑丈そうなゴム製のロープだった。
重しとロープを手繰り寄せたLは、手摺りに足を掛けすばやくそれを上の階の柵に括り付ける。
ピンと張ったロープの出所は、案の定というか、もちろん車からだった。
「これ、Rがやってくれたの?」
「ああ、そうだよ。彼女は射撃が下手だから心配だったけど、上手くいってよかった」
サスペンダーを外して、器用にロープに結びつけながらLは言った。
長さを調節しながら、強度を確かめると、そこには簡易的なジップラインのようなものができあがる。
聞かなくてもわかる。それに掴まって車まで一気に飛び降りることくらい。
Lを信用していないわけじゃないけど不安と恐怖で顔が引き攣る。
そしてこれしきの距離すら、人の手を借りないと飛び降りれない自分の力の無さが情けなかった。
「よしできた。さっ行こう」
差し出された手をとることができず、私はおずおずとLを見た。
端正な顔は相変わらず自信に溢れ、瞳はすぐそこにある空と同じくらい青く輝いている。
そうだ、恐いとか、情けないとかどうでもいい。
あの空の下に戻りたいのだ。もう目の前に空はあるのだ。
「うっ・・・」
腹をくくった私は、そっとLの手に自分の手を重ねる。
その手がぎゅっと握られLの傍に一気に引き寄せられ、ふわりと抱えられた。
「しっかり僕につかまってね」
最初の時と同じように冗談めかしたようにLがウィンクしてみせる。
Lの身体の温かさに少しばかり緊張を解した私は素直に頷き、目一杯力を入れ彼の身体にしがみついた。
「それじゃあ、いくよ…3、2、1」
DIVE!
という掛け声と共にLは手すりを力強く蹴り飛ばした。
「キャァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
風を切るかのようなスピードで一気に下に向かって滑空していく。せいぜい高さにして数十メートル。距離だって大した長さはない。
なのに人に身を委ねているという覚束ないせいか、久々の風の感触に胸を高鳴らせるどころか、全身で恐怖の叫び声をあげてしまった。
空を飛ぶことがこんなに恐いことだったなんてこの時初めて気づいた。
だけど、この恐怖は長いことは続かなかった。
車のボディがへこむんじゃないか、というくらい凄い音を立ててLが車の屋根に着地したからだ。
サスペンダーから手を離すと、すぐさま地面に飛び降り、雪崩れ込むように後部座席に私とLは乗り込んだ。
「遅いっ!!」
運転席から勢いよく怒号が飛んでくる。
「えっ?」
私は思わず目を丸くした。
だってそこに座っていたのは、想像よりずっと…というか人間の中でも華奢なほうに分類されそうな女の人―――Rがいた。
「あんまり遅いから途中で死んだかと思ったわ」
Lと同じ太陽みたいな金髪を、やっぱりLと同じようオールバックにしている。
その見た目とキツイ言葉に圧倒されていると、Rとバチリと目が合った。
するとRは、やっぱりこれもLと同じ、空色の瞳を優しげに細めた。
「大丈夫?どこか怪我はない?」
その変わりように戸惑いつつも、コクンと頷くと、よかったと安心した微笑みを見せる。
「ゴメン、ゴメン。まあホラこの通りターゲットは無傷だし?」
飄々としたLの言葉に、一瞬で顔をしかめた彼女はふん!と小さな鼻を鳴らした。
そしてサイドレバーを動かすと一気にアクセルを踏み込んだ。
「わっ!」
急発進したため、私は思わずよろけてしまいLにしがみつく。
「気をつけろよ、レディが乗ってるんだから」
私を支えながらLが運転しているRに文句を言う。
「それなら見つからないように脱出してよね」
フロントミラーに写るRの目がくいっと後ろを見ろと指示する。
振り返ると、そこには決して少なくはない車が連なり、せめぎ合う様に私たちを追いかけてきている。
「振り切れる?」
「なるべくやってみるけど、レ・・・Lもサポートしてよね」
「ああ、もちろん」
「危ないからどこかに掴まっててね!あと恐かったら下に隠れててもいいから」
私に向かってRが声を張り上げる。
「はっはい!」
返事をしたのとほぼ同時に、Rがギアをチェンジし更に一段スピードを上げる。
ハンドルを華麗に切りながら、荒い道を猛スピードで進む。
「もう少し走ったら大きな通りに出るから」
「了解」
時速100キロオーバーのスピードのせいか、ちょっとした段差でもものすごく車体が跳ね上がる。
ただでさえ荒れた道だ。しゃべったりしたら舌を噛んでしまいそうになる。私は後部座席にしっかりと掴まりながら、黙って身体を小さくしていた。
ちらりと横目でLを見ると、座席の下に置いてあったケース内の狙撃銃を揺れにびくともせず、巧みな手つきで組み立てている。
その時、バックガラスに何かが当たった鈍い音と衝撃で車がよろめく。
驚いて顔を上げれば、そこにはくもの巣みたいなひびが走っていた。
追っ手に狙撃されたのだ。恐怖で顔が一気に青褪める。
「やつら手加減なしだなぁ」
「よっぽど知られたくないみたいね」
「ああそうみたいだ。ただの研究機関ではなかったし」
危機的状況のはずなのにLとRは平然としていて、どこか駆け引きのような会話だ。
施設内の銃撃戦でも思ったことだが、この2人にとってこれくらいのことは日常茶飯事なのだろう。
「もう抜け出すわよ!」
Rの言葉が終わるか終わらないかくらいで車が大きく弾むと、荒れた林道を抜け出し、整備された大きなコンクリートの道路に躍り出る。
遮る木々がなくなり車内がいっぺんに明るくなる。
「よし、こっちも反撃開始だ」
完成された狙撃銃をLが握りしめる。
明るい所で見た銃は細身なのに重量感があり、黒く光るボディはものすごい威圧感が放っている。
それを持ち上げながらLは身体の向きを直す。
同時に、くしゃっと私の頭を撫でた。
「ちょっと危ないから頭、低くしててね」
にこりと微笑んだLだったけど、すぐに顔を引き締めて狙撃銃を構えだす。
外の様子を伺いながらLは素早く窓から身を乗り出す。
追っ手がここぞとばかりに銃を乱射してくるが、Rの巧みなハンドル捌きのお陰でLには当たらない。
だけど、車体には何度も弾が当たり、車内に音と振動が響き渡るたびに体中が強張った。
安定しない運転の中、Lはしっかりと身体を固定し、スコープ越しに狙いを定める。
ぐっと指先に力を入れて引き金を引いた。
連続して鋭い金属音の爆ぜる音がし、追っ手の先頭車が大きくよろめいた。
1台、2台、、、後ろに連なっていた車にもLが次々と弾丸を撃ち放っていく。
急速にスピードを落とし、コントロールを失った車は後継車を巻き添えにして、道路の中央で轟音をたてて炎上した。
「よしっ」
「あっ…!」
音に怯えてずっと座席の下に潜っていた私だったけど、Lが車内に身体を引っ込めたのを見て這いずり出てきた。
「こわかった?」
素直に頷けば、もう大丈夫だよ、とLが頭を撫でてくれた。
振り返れば既に小さくなった煙が見えるだけで、それ以上は追っ手はこないようだった。
ふぅっと息を吐きながらシートに身を沈める。自分は何もしていないのに、緊張で全身が凝り固まっていた。
「このまましばらく走るから休んでなさい」
もう無茶な運転をする必要がなくなったせいか、穏やかな表情でRがこちら見ながら言った。
「そんな・・・」
「Rの言うとおりだよ。ここ最近休んでいないだろ?」
「なんで知って・・・」
全てを言う前にLの手によってそっと目が閉じられた。
Lの手からは火薬の匂いがしたけれど、とても温かくて、なんだか日溜りにいるような気持ちになっていく。
疲れが溜まっていたのもあってか、そのぬくもりに導かれるままにゆったりと船を漕ぎ出す。
「知ってたわよ。鏡の前で泣いていたことくらい」
遠くのほうでRの声が微かに聞こえたけど、それ以上は何も聞き取れず私は深い眠りに落ちた。
「ここはどこ!?」
車とは違う振動に驚いて身を起こす。
モーター音と水しぶきの音が聞こえるから、船で水上を移動していることは感覚でわかるけど、
窓ガラスには黒いシールドが貼ってあるため、外の様子はよくわからない。
「あら目が覚めた?すごくぐっすり眠ってたわよ」
向かいに座っていたRが私が起きたことに気づき笑いかけながら言った。
そのお日様みたいな金髪が眩しくて私は思わず目を細める。
「体調はどう?余計なお世話かもしれないけど、栄養剤を打っておいたんだけど」
「えっ・・・?」
Rにそう言われて私は腕を伸ばす。すると左腕に小さなガーゼが宛がわれていた。
乗り物を換えたことも、注射を打たれたこともまったく気づかなかった。Rの言うとおり相当ぐっすり眠っていたのだろう。
でもそのせいか、はたまた栄養剤のおかげか。いや多分両方のおかげだろうすごく体調がよかった。
「すごく、気分がいいです」
「そう、なら良かった」
ニコリと微笑むと、Rは立ち上がりうーんと伸びをする。
改めて見ても、その白くて細い手からは想像できないような激戦だった。
「あいつなら上で運転してるわよ」
私の視線に気付き、Rが屋根を指差す。
「あ、いや、別に・・・」
「あら、レ、いやLのことが気になったんじゃないの?」
「そ、そんなことないですっ!」
私が慌てて否定したのを見てRがクスリと笑った。
「これ食べられるかしら?」
腰に身に着けていた小さなウエストポーチから固形食糧を取り出す。Rの手に乗っているそれを見て、施設にいたときにはまったく湧かなかった食欲が顔をみせる。
私は食料を受け取ると少しづつ口に運んだ。時間を掛けてRがくれた食料を食べきると、Rが空色の瞳を細めて、これなら大丈夫そうねと微笑んだ。
「外に出てみる?」
携帯食料を全部食べ終えて、一息ついた頃にRが尋ねてきた。
「えっ、いいんですか?」
「ええ。そろそろ着く頃だと思うし」
Rが私の手を取り船内の扉の前に立たせると、耳もとでそっと、目を閉じてと言った。
私は言われた通りに目を閉じる。すぐに扉が軋みながら開く音が聞こえてくる。
「ゆっくり、足元に気をつけて」
伸ばされたRの手に掴まりながら、足場が少しぐらつく船上をそろそろと歩いていく。
扉をくぐると目を閉じていても外の世界に出たのが分かった。
瞼の裏や肌に感じる暖かな日差し。
深く静謐な空気の香りに、水の流れる心地よい音。
懐かしい、記憶の奥に眠らせていた場所が呼び起こされる。
「さあ、目を開けてみて」
どこか弾むような声でRが言い、それからそっと手が離された。
私は一人船上に立ちながら、恐る恐る、でも期待に満ち溢れながらゆっくりと瞳を開いた。
「ああっ!!」
私の目に飛び込んできたのは見渡す限りに広がる緑深い森。
何度も何度も夢に見て、その度にもう二度と帰ることはできないと嘆いた場所。
それが、今、目の前に悠々と広がっている。また、この愛おしい場所に立つことができるなんて。
嬉しさと喜びで身体が震え、最初に叫んだ以上は声が出なかった。
「どう?この場所で大丈夫?」
ふわりと優しく肩が掴まれる。
振り向けばそこには柔らかく微笑んでいるLがいた。
「Lっ・・・!」
私はなんて言ったらいいか分からず、Lに抱きついた。
そんな私の頭をLは落ち着いてと諭すように撫でる。
「どうしてここだってわかったの?」
二人に帰りたい場所の名を告げたことはない。
なのに、なんで?
「そのくらい分かるわよ。あなたはここにしか生息してないんだから」
ヒラヒラとRが手に持っている紙には、私たちのことや、この森のことが詳細に書き込まれていた。
ああ、確かそれと同じようなものをあの施設の人たちは持っていた。表紙が赤い分厚い本だったけれど。
「さあ、ここから先は一人で行くんだよ」
上に広がる空みたいに澄んだ瞳で、私の瞳をじっと見つめながらLが言った。
その言葉に私は頷く。
少しばかり名残惜しいけど、Lの身体からそっと離れる。
船の先端まで歩いていくと、私はくるりと振り返った。
「助けてくれ、ここまで連れてきてくれてありがとう」
深々とお辞儀をすると、LとRは、これが仕事だから、と笑いながら言った。
吃驚したことも、恐かったことも沢山あったけど、二人に助けてもらえたから私はまたこの森に戻ることができたのだ。
どんなに感謝してもしきれない。
「またどこかで会えたら」
「はいっ!」
明るく返事をして、私は二人に背を向け、輝く太陽をぐっと見上げる。
そして足に力を入れると、腕を伸ばすと同時に思いっきり地を蹴り上げた。
大きな羽音を立てながら、高く高く舞い上がる。
「ありがとう、本当にありがとう」
彼らの頭上を旋回しながら何度もお礼の歌声を響かせた。
私は緑深い森に向かって力強く羽ばたいた。
「きれいな歌だったね」
彼女の姿が見えなくなり、空に吸い込まれるように歌声が消えた後Rがポツリと言った。
「ああ・・・。」
ボロボロになってもまだ美しい翡翠色の羽を翻し、美しい旋律を奏でながら、彼女は生まれた森へ帰っていった。
その艶やかな羽の色と、抒情的な歌声のせいで近年では絶滅の危機に瀕しているという幻の鳥。
それ故にブラックマーケットではかなりの高額で取引されている。今回Lが潜伏した機関もそのような所だった。
彼女もまた密輸入者に捕まり、あの機関を経た後酔狂な富豪に買い取られ自由を渇望しながら衰弱死するか、
装飾のためにあの綺麗な羽を毟り取られ、見るも無残な死を遂げるか。あるいは喉が擦り切れてもなお歌わせ続けられ悲運の歌姫として死ぬか。
そのくらいの未来を想像することは容易かった。そしていずれにしても彼女を待ち受けていたのは残酷な未来しかなかった。
「そういえば、あれはどうなってる?」
「ケースの中に入れてあるわ」
今回の潜伏調査でLはあの機関が表向きは希少動物の密輸入だけでなく、さらに裏の顔を持っていることを知った。
ただ、一端を掴んだにすぎないため更なる調査をしなくてはならない。そのためには早くホームに帰って報告する必要がある。
真剣な眼差しで遠くの空を見ているLに、そんなことより、とRが細い腕を絡ませるように抱きつく。
「あの子、あなたのことが好きだったんじゃない?」
突拍子もないRの発言に、一気に思考が遮断される。
何を言っているんだ、とRを見れば自分と同じ青い瞳が楽しそうに揺らいでいる。
「・・・なんで、そう思うんだい」
「あの子が最後に響かせてた歌声、きっと恋の歌よ」
「根拠は?」
「鳥が歌うのって求愛行動の基本じゃない!」
自信たっぷりのRにLは呆れ果ててため息を一つだけ吐く。
「ちょっと!なんでそんな顔するのよ!」
Lの態度が気に食わなかったらしく、頬膨らませてRが拗ねる。
任務が終わると相方は途端に子供っぽくなるなと思いながら、そんな相方にLは苦笑した。
「ほら、僕らも帰るよホームに」
まだまだやることは沢山あるんだから、とRを船内へと促しながら、もう一度あの子が消えてった方角を見上げる。
彼女は無事仲間の元にたどり着けただろうか。
願わくばこれ以上彼女とその仲間たちが苦しまなければいい。
そのためには―――、立ち止まっている暇などない。自然とLの拳に力が入る。
目を閉じて大きく深呼吸し、次に前に向き直ると、力強い足取りでRの後を追った。
その肩越しにはあの子の羽の色と同じ翡翠色に輝く森がどこまでも続いていた