ラストサマータイム

「おはようございます、神威センパイ!」

駅から学校までの10分間、見慣れた後姿に私は元気良く声をかける。

「ああ、愛音か、おはよう」

追いかけて肩を並べると、今日も元気だな、と端正な顔を和ませて私だけに笑顔を向ける。
その笑顔に胸がきゅんとなる。それが顔に出てしまいそうになるから、慌てて新しい話題を持ち出した。

「ら、来週から衣替え週間ですね」
「ああ、まだまだ暑いのにな」
「そうですね、今日なんて夏みたい」

空を仰げば清々しい青空と照りつける太陽が眩しくて思わず目を細める。
二学期に入っていく週、少しは涼しくなるのを期待していたら、まだまだ夏のような日差しと気温が続いている。
それなのに校則だと来週からは冬服への移行期間に入り、更にその翌週には冬服に完全移行だ。
あと一週間で冬服に袖を通せるくらいの気温になるか、はっきりいってビミョーだというのに。

「校則も温暖化仕様に変えてもらいたいよなー」

ジリジリと照りつける太陽にセンパイが制服のシャツをパタパタと扇ぐ。
私はというと、最初きょとんとしていたけど、しばらく経ってから笑いが込み上げてくる。

「なんで笑うんだよ」
「だって、温暖化って!センパイでもそういうこと考えるんですね…!」

クスクスと笑いが収まらない私に、センパイが笑うなよな、少し照れながらも怒った風な口調で私の頭を小突く。だけどその手には全然力なんて入っていない。
私もふざけて、ぼーりょく反対!なんて返す。
神威センパイは優しくて、かっこよくて、一年生女子からの人気は高い。各いう私もその一人だった。
最初は話しかけるだけで緊張したものなのに、今じゃこんな戯れは日常茶飯事。
同じ部活に属しているから、というより私たちが属している演劇部が上下関係が比較的ゆるいのと、神威センパイが見た目よりずっと気さくな性格だったおかげ。
私も怖気ずにどんどん話しかけることができた。
だから、私の心に憧れ以外の気持ちが芽生えるのに、そう時間はかからなかった。
でもそのことは部活で一番仲がよい子にしかしゃべっていない。
理由はいくつかあるけれど……少なくとも今はこうやって側にいて、仲がよい先輩と後輩の関係でいられるだけで幸せ、と自分に言い聞かせている。
多くを望んだっていいことは一つもないものだから。

「そういえば、センパイは明日の自主練出ますか?」

演劇部は第二、第四土曜日の午前に自主練があるのだ。

「明日?ああ、もちろん出るよ」
「学祭近いですもんね」

夏にあるコンクールの次に演劇部が発表するのは文化祭だ。二日間ある文化祭の内、初日は主に一年生で組まれた劇で、コンクールに出ていない初心者が初めて舞台に立つ劇である。
そして二日目がメインのコンクールで発表した劇。私は初日、神威センパイは二日目にそれぞれ役をもらっている。
私たちの学校の演劇部はなかなかにレベルが高いらしく、観に来るお客さんの期待も高い。
もちろん二日目にやるほうの劇の話だけれど。二日目の劇に出ないほとんどの一年生はその日はライトや音源、舞台道具などの裏方作業をやることになっている。
そんな学祭が迫っているおかげで、いつもより部活の練習には力が入っているのがわかる。
土曜日の自主練だって目に見えて人が多い。
だけど、神威センパイは私が知っている限りでは練習を休んだことがない。本人いわく、他にやることがないから、だそうだ。真面目な神威センパイらしいな、と私は密かに思っている。
まあ、そのお陰で私も入学してから練習は無欠席だったりするのだけれど。

「それに、最後だしな」
「え?」
「ほら……ルカ先輩」

神威センパイの口からその名前が出たとたん、私の心がズキッとした。
「ルカ先輩、学祭で引退だろ?寂しくなるよな……」
「……ええ、そうですね」

私のしぼんだ様子に、センパイはルカ先輩が引退することが寂しいのだろうと勘違いする。

「まあ、きっとルカ先輩なら引退してもちょくちょく見に来てくれるから、な?」

だからそう落ち込むなよ、と言ってセンパイは私の頭を優しい手つきで撫でた。
違うの、とは言えなかった。
今の私には泣きたくなるような気持ちを抑えつけて、弱々しく微笑むのが精一杯だった。


どうして気付いてしまったのだろう。
入学当初、神威センパイに憧れて演劇部に入部した。センパイは優しくて頼もしくて、それに練習中のセンパイはとてもかっこ良かった。
憧れはどんどん強くなっていき、気付いたときには憧れ以上の気持ち……好きに変わっていた。
いつからか、なんてはっきりとは分からない。けど私の視線の先にはいつも神威センパイがいた。
だから、神威センパイの視線の先に誰がいるかなんて、教えられなくても気付いてしまった。私が気持ちを抑え付ける最大の原因。
巡音先輩は美人で優しくて、帰国子女だから英語もペラペラ。演劇部の主演女優だけあって演技もすごく上手だった。
才色兼備とはこうゆう人を指すのだろうと思った。女の私だって見惚れてしまうくらい素敵な先輩だった。
神威センパイの視線の先にこの人がいることに気付いたとき、本気で気付かなければ良かったのに、と後悔した。
敵いっこない。例え巡音先輩のほうにその気がなくったって、そんなの関係ない気がした。
むしろ最近では自分の気持ちに気付かず、憧れのままだったらどんなによかっただろうと思うようにさえなった。
好きになればなるほど、辛い気持ちも膨れ上がって、痛かった。苦しかった。



文化祭はあっという間に訪れた。
一日目は目の回るような忙しさと初舞台の緊張で気付いたら終わっていた。
二日目の今日はセンパイ達が出る舞台の準備で、朝から走り回っていて、まだまともに校内を見て回れていないのが現状だ。
それでも、今日は自分達の発表がないため昨日よりずっと心に余裕はある。
裏方作業をしながらも、先ほど幕を開けた先輩達の舞台を袖から見ることができるくらい。
始まってしまえば後は練習した通り、と言うのもあって他の一年生も一息ついているみたいだった。

私はこっそりと舞台の様子を見る。何度も練習で観た劇だ。内容は既に知っている。
けれど、本番だとやっぱり舞台の上に流れる空気が違うせいか、なんだか違うものを観ている気分になる。

(あっ……)

舞台の中央でヒロインを演じる巡音センパイが台詞を喋る。

(やっぱり、きれいだよな……)

そう思っているのは私だけじゃないようで、他の部員や観客も巡音先輩に目を奪われているようだった。
華奢な身体から紡ぎだされる台詞はちゃんとホールの隅々にまで響き渡り、動作や表情、全てにおいて引き込まれていく。

「……めぐみちゃん?」
「えっ、あ、何!?」

部活で一番仲が良い子に話しかけられる。何かミスしたのかと焦ったがそうではなかった。

「いや、その顔色があんまり良くないから、具合悪いのかな、と思って」

その子は心配そうに私の顔を窺っていた。

「ここ暑いしさ、もうやることもあんまりないし、外で休んでなよ?」
「え、でも、悪いよ…」
「大丈夫だよ、他の人もいるし」
「……うん、じゃあちょっと外に出て休んでるね」

別段具合は悪くなかったけど、しばらく考えてから言葉に甘えることにした。
ごめんね、と手を合わせてから私は舞台袖と廊下を繋ぐ、非常口からホールの外に出る。
あのまま劇を見ているのは正直辛かった。知らず知らずに巡音先輩と自分を比べてしまい、自信がもてなくなっていくから。意味のないこと…分かっているつもりなのに。

やはりホールの中は蒸し暑かったのだろう、外に出ると空気が籠もっていないのもあって、大分涼しく感じた。知らぬ間にかいていた汗がゆっくりと引いていく。
ホールの外は小さなラウンジになっていて、そこから校庭や出店様子が見えた。どこか校内を見てもよかったけど、どうせすぐに劇は終わる。終わったら片付けが待っていると思うと、どこかに行く気は失せた。
私はラウンジに備え付けてあるソファーに腰をかけると、窓から外を眺める。友達同士や他校の人、受験生っぽい中学生、それにカップル。
様々な人達がみなそれぞれ楽しそうに文化祭を満喫しているように見える。
人混みの中には同じクラスの子もいた。その子の隣に並ぶのは見かけない男子生徒。
制服はうちのものだから、きっと先輩なのだろう。

(彼氏、かな……?)

男子生徒が買ってきたクレープを嬉しそうに受け取り二人で食べている姿を見て思った。

(いいな………)

私はそっと目を閉じて想いを巡らす。もし神威センパイと付き合えたら、あんな風になれるのかな。期待はしていない。だけど夢にみるその光景。
自分の好きな人が自分のことを好きでいてくれるというのは、奇跡に近いことじゃないだろうか。少なくとも独りよがりなこの気持ちからみたら。
大きな窓ガラスから降り注ぐ太陽の光は、真昼のピークを過ぎ、午後のけだるい空気の中に拡散していく。
薄れゆく意識の中で私はそんなことを考えた。


「めぐみちゃん!めぐみちゃん!」
「は、はっい!?」

呼ばれて驚いた。
気持ちよくてつい眠ってしまったようだ。とっさに腕時計を見て慌てる。針が差している時刻は劇の終了時刻をとうに過ぎていた。

「ごめん!今すぐ行きます!!」

勢いよく立ち上がった私を、大丈夫だよ、とその子は制した。

「あのね、先輩たちが片付けはやってくれるんだって」
「え、そうなの…?」
「うん、一年生頑張ってたからだって」

先輩たちからの粋な計らい、というやつなのだろう。嬉しそうにその子が微笑んだ。

「だから、残り時間少ないけど、一緒に学祭回らない?」

その子の問いかけは当たり前といえば当たり前だった。
初めての文化祭なのに部活に付きっきりでほとんど学校内を回れていなかった。あと少しで終わるにしても、少しでも色んな出展を見て回りたいという気持ちが動き出す。

「そうだね、せっかくだし!」

元気よく私がそう言うと、その子はほっとしたようで顔をほころばせた。

「よかった、最近めぐみちゃん元気なさそうだったから」

と胸に手を重ねて微笑む。

「そ、そんなことないよー!」

私は大げさに手を振って元気なことを証明する。
自分では気をつけているつもりだった。
そもそも巡音先輩や神威センパイのことでもやもやしていて練習に身が入らないなんてことがあったら、それだけで神威センパイに呆れられてしまいそうだ。
そこだけはきっちりと分けているつもりだったのに。

「私はてっきり神威先輩のことで何かあったのかな、って思ってたから…」
「ち、違うって!私カバン取ってくるね…!」

まだ何か言いたそうだったけど、私は半ば強引に会話を打ち切ると小走りでカバンを取りにホールの方へと向かった。
非常口をくぐり抜け舞台の袖に入り込む。お客はとうにいなくて、片付けもあらかた終わったのだろう。ホール内はとても静かだった。
女子の控え室は反対側の舞台袖だったので、まだライトも点いているし、舞台の上を突っ切ってしまおうと思った。
私は舞台の床の感触が好きだった。年季の入った木の床はツルツルというよりさらさらといった感じで、滑るように歩くのが楽しいのだ。
あと、閉じられた幕の裏側というのも世界から切り取られたような気分にさせてくれて好きだった。
すすっーっと音を立てずに私は舞台の上を滑り歩いていく。
その時、

「何してるんですか?」

誰もいないはずなのに。
まるでいけいないことを見つかった子どもみたいに私は驚いて辺りをキョロキョロと見渡す。

「ここに立つのももう最後かな、って……」
「感無量ってとこですか?」
「まあ、そんなとこね」

そこで私はその声が幕の表側から聞こえていることに気が付いた。
さらにその声の主が神威センパイと……巡音先輩であることにも気付いた。
中央部分の幕がゆらりと小さく動く。きっとどちらかが舞台に腰掛けているのだろう。
二人とも幕を隔てて私がいることには気付いてないみたいで、とりとめのない雑談のような会話を交わしている。
私はいけないと思いつつも、まるで足を釘で打ちつけられたみたいにそこから一歩も動けなかった。

「ルカ先輩が引退したら部活が寂しくなります。舞台だってきっと客が減りますよ」
「そんなことないわ」
「ルカ先輩、自分が人気あること知ってますか?今日だって半分はルカ先輩のファンですよ」
「なんでそんなことが分かるのよ」
「そいつらの目を見ればわかりますよ。だって……」

神威センパイが口を閉ざし、巡音先輩との会話が途切れた。しん、と静けさが広がる。

「だって…?」
「………オレ、ずっと…」

二人の間に飛び出そうかと思った。
その先にある言葉なんて難なく想像できる。イヤだ言わないで。心の中で叫んだ。

「オレ、ずっと先輩のこと見てきたから。……オレ、先輩のことが好きです」

そんな私の思いを裏切って、予測どおりの言葉が神威センパイの口から紡がれた。
声だけのはずなのに、顔を真赤にして俯いている神威センパイが脳裏をよぎる。
震える足を必死に踏ん張らせて私はなんとか立っていた。
長い沈黙だった。心臓の音が煩わしいくらいに耳に響く。

「すみません、今の言葉忘れてください…」
「待って!」

きっと神威センパイがホールから出て行こうとしたんだろう。それを引き止める巡音先輩の声が響いた。

「なんで忘れなきゃいけないの?」
「えっ…?」
「だって、私も神威くんのこと……」

あんなに煩かった心臓の音が聞こえなくなった。
たった今、巡音先輩が発した言葉が頭の中で何度もリピートされる。

(うそ………)

目を閉じ、手でそっと覆う。じわりと熱いものが込み上げてきた。喉の奥から漏れそうな嗚咽を必死で抑える。泣いちゃだめだ…。
そう思いながらも瞼の裏に浮かぶのは、皮肉にも赤くなった、でも幸せそうな神威センパイと巡音先輩の姿だった。

「ルカ先輩…?」
「ごめん、なんか色々嬉しくて…」

きっと泣いているのだろう。巡音先輩のはなみずを啜る音が聞こえた。

「気付いたら神威くんのこと好きになってて…気付いたらいつも見ていたわ」
「気付きませんでした」
「そりゃ、バレないようにしてたもの」

これでも演劇部ですから、とワザとおどけた口調で巡音先輩が言う。

「神威くん、自分が人気あるの知ってる?」
「そんなことないです」
「そんなことあるわ。その子の目を見ればわかるもの私も同じだから」

巡音先輩の言葉にドキリとした。
私は震える足に力を入れると、何とか舞台の上を駆け抜けた。
巡音先輩はきっと私が神威センパイのことを好きなのを知っていたのだ。
別に怒りとかは湧かなかった。結局神威センパイが選んだ人は巡音先輩なのだから、私が入り込む余地が最初からなかっただけ。それだけのことだ。

舞台袖の控え室に着くと、私は残っていた先輩に普段と同じように挨拶を済ませ、自分のカバンを掴むと急ぎ足で控え室を後にした。
それから待たせていた友達に、やっぱり具合が悪いから帰る、と誘いを断った。自分勝手だな、とわかってはいるけど、さすがに今の私には文化祭を楽しむ心の余裕はなかった。
その子は心配して家まで送ると言ったけど、私が頑なに大丈夫だからと言い張ると、何か言いたそうな顔をしながらも、わかった、と一言呟いただけだった。

校門を出て弱々しい足取りで駅へと向かう。
頭の中を今までの楽しかった思い出ばかりが浮かんでは消えていく。
神威センパイの好きな人が巡音先輩だった時点で、期待することはやめていたはずなのに。
なのに、なんでこんなに苦しいんだろう。

(ああ、そうか―――)

立ち止まり空を見上げる。
もうすぐ夕刻に染まる空は、高くどこか淡い色。

(私、まだ神威センパイが好きなんだ。)

一筋の風が吹く。
その風は半袖の制服には肌寒くて、もう夏が終わったことを告げていた。

(早く、終わらせなきゃ……)

この気持ちに終止符を。
行き場のない恋心の代わりに溢れてこぼれたのは、涙。