後ろめたくて

それは穏やかな午後のこと。
リンは自室の床に直に寝そべり、指でクルクルとペンを弄びながら新しい楽譜をチェックしていた。新曲は少し早めの春の歌で、歌詞を読むだけで心が弾んでくる。
その時、楽譜に集中し過ぎて指先の気が緩んだのを見計らったように、ペンがリンの手から転がり落ちた。

「あっ・・・!」
小さな声を上げて慌ててペンの行方を追えば、この部屋のもう一人の主であるレンのベッドの下にコロコロと逃げ込んだのだった。
あーあ、と小さく不満をこぼしながら寝転がったままの体勢でベッドの下に腕を伸ばす。狭い隙間に手探りだけでペンを探し当てようとしていると、リンの指に何かが触れた。

「ん・・・・・・?」
ペンではない何かに違和感がし、先を持ってそのまま明るみに引きずり出す。

「何、コレ・・・!?」

ベッドの下に隠れていたものは一冊の雑誌だった。
ただし、その表紙には、淫らな格好をしたスタイルの良い女の人の写真と、公序良俗に反するような言葉が並んでいた。

「えっえっえっ、これっレンの・・・・・・?」
普段の真面目なレンから想像もつかない本にリンは目を白黒させる。
見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐに元あった所に戻そうとしたけど、身体はなかなか動かず、じっと表紙に見入る。
どういったことが書かれているのか、中身が一体どんなものなのか、いけない好奇心が何処から湧き上がる。
そして遂に誘惑に抗えず、リンはゆっくりとその表紙をめくったのだった。

ちょっとだけ、ちょっとだけ、そう思っていたつもりなのに、気付いたら全ページに目を通してしまっていた。
読み終えると、大きく深呼吸して何事もなかったかのように雑誌をベッドの下に戻す。
(レンってば、あんなのが好きなのかな・・・)
極彩色のグラビアページや、卑猥な言葉が羅列する小説、リアルな体験談、ソープやデリヘルの広告等、思い出すだけで顔に熱が集中するのが自分でも分かった。
それを吹き飛ばすように頭を何度か振ると、ドアの付近にあるスタンドミラーの前におずおずと移動する。

(こ、こんな感じかな・・・・・・?)
グラビアのお姉さんがしていたような格好を真似てみる。
足を広げたり、胸を寄せたり、四つん這いになったり。その扇情的なポーズにまたもや恥ずかしくなり、思わず鏡から目を逸らしてしまう。

だけど、何かが物足りない、そんな気がした。

(服着てるからかなぁ?)
写真の中の人たちはみな布面積が少ない、というかほぼ何も纏っていないものがほとんどだったから。
写真を思い出しながら、もう一度鏡に映った自分の姿を見る。
そして気付いた。
グラビアの中の女の人たちがみな、豊かな曲線を描いていたのに対して、自分がすとんとした寸胴体系だということに。
思わずリンは自分の胸に触れてみる。
真平ら、とは言わないけど主張するほどの膨らみはない。次にお腹、太ってはいないけど、くびれらしきものも見当たらない。
今まで気にしたことなどなかったが、確認してみて自分の体型が幼児体型でまったく魅力的でないことを知る。それはレンが好きであろうタイプとは程遠いことを示していて。
(どうしよう・・・!このままじゃ、あたしレンに嫌われちゃう)

真っ先にリンの脳裏を過ぎったのはそのことだった。成長期だから、の一言では済まされない。
そう思った瞬間、リンは立ち上がって部屋を飛び出したのだった。




リンが向かった先は階下のキッチンだった。この時間は大抵メイコが夕飯の支度をしていることが多かった。
案の定、ドアを開けた先にはメイコが手際よく食材を切ったり、鍋をかき回している姿があった。

「メイコ姉・・・」
「うん?」
リンは繋がっているリビングに誰もいないことを確認しながら、そっとメイコの傍に近寄る。メイコはというと、手は動かしたままでリンに応じる。

「どうしたのー?」
「あのね、その・・・どうやったら胸って大きくなるの・・・?」
「えっ?」
メイコの手がピタリと止まり、驚いた顔でリンの方を向く。怪訝な色がその瞳には浮かんでいた。
「あ、いや、えっと、あっそうだ!メイコ姉は昔何食べてた!?」
「はぁ?」
慌てふためくリンに益々メイコは訝しげな表情になる。その視線にリンはたじろぎ、下を向いてしまう。
その様子にメイコのほうが何かを感じ取ったのか、台所の前から離れて真面目にリンと向き合う。
「胸、大きくしたいの?」
「・・・・・・うん」
「どうして?」
「それは・・・・・・」
言葉につまり、視線を泳がせるリンを見てメイコは困ったように微笑む。

「豆乳がいいらしいわよ」
「えっ・・・・・・!」
「大豆イソフラボンが良いって聞いたことがあるわ」
「そうなの!?」
「女性ホルモンに似てるって、テレビか何かで言ってた気がする」
リンは面を上げて期待に満ちた目でメイコを見る。
その表情を見てメイコは少なからず安心したのか、軽く息を吐きまた作業台の前に戻り、リズミカルに包丁を動かし始める。

「でもねー、そうは言われてるけど、リンくらいの時期はバランスよく何でも食べてって・・・リン?」
メイコが再びリンの方を向いたときには、リンの姿はキッチンから消えていたのだった。




二階に舞い戻ってきたリンは自室の隣の扉を軽くノックする。
するとすぐに、どうぞ、と柔らかい返事がきたのでゆっくりと扉を開けて中に足を踏み入れた。

「どうしたの、思いつめた顔して?」
扉の前で立ち尽くしているリンにミクは優しく言葉をかける。
どうやら部屋の真ん中にあるテーブルでマニキュアを塗っていたらしく、除光液の強すぎるオレンジの香りが部屋に溢れている。

「ちょっと、聞きたいことが・・・」
リンはカーペットに膝をついてミクの傍に近寄りながら、ミクのウエストラインをじっくりと見る。
(やっぱりミク姉、スタイルいいな・・・)
細いけれど、不健康な感じも嫌味な感じもしなくて、緩やかに丸みを帯び、とても女性らしい腰に思わず見入ってしまう。

「リンちゃん・・・?」
「・・・はっ!あの、えーと、、」
「ん?どうしたの」
「あのね、その、どうやったら痩せられる・・・?」
「・・・痩せるって、ダイエット、ってこと?」
「・・・うん」
「リンちゃん、十分細いから必要ないと思うんだけど」
リンの唐突な質問にミクは困惑しているようだった。

「ほっほら、バレンタイン!バレンタインでチョコ食べすぎちゃって、最近ちょっと体重が増えちゃったんだよねー」
しどろもどろになりながら、リンが何とかその場で思いついた言い訳を並べると、なるほど、と素直にミクは納得してくれた。

「ダイエットかぁ、特に意識したことないからなー」
「ええー!なのにそんなにスタイルがいいのっ!?」
「そうかな?うーん、雑誌とか読むとやっぱり、お菓子とかお肉は控えて、お野菜中心の食事がいいて書いてあるから、そうするのがいいんじゃないかな?」
「ふむふむ・・・!」
「あ、あと半身浴いいよ!」
思い出したというように、ミクは手をポンと打つ。
「はんしん、よく・・・?」
聞き慣れない言葉にリンは同じ言葉を問い返す。ミクはニッコリと微笑むと、わかりやすいように半身浴の効果とやり方を説明しだした。


「なんか、半身浴はすごく効きそう!」
「効き目があるかは分からないけど、私も時間があるときはなるべくやってるよ」
「それなら絶対に効果があるよ!ありがとうミク姉!!」
キラキラと目を輝かせてリンは感謝の言葉を述べる。メイコに聞いたことも含め結構な情報量を手に入れたことになる。
これを全て試せば、きっとレン好みの女の子になれるはずだと思った。
「アドバイスになってるといいんだけど――あっ、半身浴は汗かくからお水、、、ってリンちゃん?」

ミクが言いかけたときには、既にリンは部屋から駆け去っていて、新鮮な空気が部屋の中のものと少しばかり混じりあっていた。




レンがリンの様子が普段と違うな、と確信を持ったのはあれから3日経った夕飯のときだった。

ここ最近2人で歌う仕事が入っていたため、夜は他のみんなとは別に食べているのだけれど、いつものリンなら取り置きされたお皿のメインを見比べ、どちらの方が大きいかと目を凝らし、ご飯だってしっかりとよそう。更に食後にはデザートないかなー、と冷蔵庫を漁ったりするのに。
この2,3日はデザートどころか、ご飯もいつもの半分以下、おかずだってほとんどレンにくれる状態だ。あと、何故かお茶の変わりにしかめっ面になりながら豆乳を飲んでいる。

今日だって、これあげる、と言って自分のコロッケを半分以上レンの皿に移してきた。
そして、その代りこっちちょうだい、と付属の千切りキャベツをほとんど奪っていった。

「ごちそうさまっ!」
わずかな量の食事を早々と終えると、リンは素早くお皿を片付け、お風呂場へ行こうとする。
「あっ、リン、今日冷蔵庫にプリン入ってたよ」
部屋を出ようとするリンに慌ててレンは声をかける。

「プ、リン・・・?」
「そう、しかもクリーム乗ってるやつ」
「クリーム・・・!」
甘美な誘いにリンの顔が一瞬だらしなく緩む。しかしハッとして頭を大きく振ると、
「あたしはいいや!レン食べていいよ」
と言って逃げるようにお風呂場に駆け込んでしまった。

レンはプリンの誘いにすら乗らなかったリンに心底驚き、2,3日前の自分達に何かきっかけになるようなことがあったか思い出そうとしたが、当然のように思い当たる節はなくて途方に暮れた。
目の前には冷めたコロッケが寂しそうにお皿の上に並んでいた。



脱衣所に駆け込んだリンは、先程のレンの言葉にわずかな後悔を覚える。
ミクに甘いモノは控えたほうが良いと言われてから、お菓子は全て封印している。それどころか、ご飯やおかずだって半分以下の量にして、特にお肉はほとんどレンにあげている。

「プリン・・・食べたかったなぁ」
一人ポツリと呟くと、それに呼応するようにお腹がキュルルと鳴った。当然だが、あんな量の食事ではリンの空腹は満たされない。
まだ3日目なのに、これでは先が思いやられる。
それでも、と着ている服を脱ぐと、早速体重計に乗る。これで大きな変化が見られれば我慢も報われるだろう。

「ええっー!」
リンが乗った体重計が示した数値は前日とほぼ同じものだった。
「そんな、なんで・・・・・・」
がっくりと肩を落として、悪あがきに身に着けている下着類も取っ払う。しかし、微々たる変化しかなく、ハァと大きなため息を吐いて体重計から降りると正面にある鏡に自分の上半身が映り込む。
同じく変化のない貧相な胸。
美味しくない豆乳を1日1リットルは飲んでいるのに。顔色も何となく悪くて、ますます気分はへこんでしまう。
それでも、まだ始めてから3日目だから、と自分に言い聞かせて、今日もミクに教わった半身浴を試みるのだった。



リンより少し遅れて夕飯を終えたレンは、リビングでテレビを見ながら風呂が空くのを待っていた。もう結構な時間が経っているのに、リンが出てくる気配は一向にない。
テレビの内容にもいい加減飽きてきて、壁に掛けられている時計を見上げれば、既に1時間以上経っている。
痺れを切らしたレンは立ち上がると、早く出るよう、促すためにお風呂場へと向かった。


「リン?まだ入ってるの?次つっかえてるんだけど」
少し乱暴にノックをしながら、中に聞こえるように大きめの声で呼びかける。
しかし扉の向こう側から返事が聞こえてくる気配はない。
もう一度さっきより大きな声で呼びかけるが、やはり返事はなく、ドア漉しに耳を澄ましてみても着替えている音やシャワーの音はしない。
「リン?入るぞ、怒るなよー?」
ドアノブに手を掛け、一瞬だけ入るの躊躇ったが、レンはそのままグッと力を込めた。


水蒸気で少しばかり曇っている脱衣所にリンの姿はなく、足拭きマットの上には衣服と一緒に下着まで脱ぎ散らかっていて、思わずレンは目を背ける。
「あいつは、ったく・・・リン!まだ入ってんの?」
浴室へと繋がる曇りガラスのドアに声を掛ける。

「・・・リン?リンっ?」
中からなにも反応がなく、様子がおかしいと感じたレンはそっと隙間を作って浴室の様子を窺った。
するとバスタブの中でぐったりとしているリンがいた。
「・・・・・・リン!?」
慌てて駆け込みリンの細い肩をそっと掴む。

「リン!リン!大丈夫!?」
「・・・・・・んっ・・・」
わずかな反応はあるものの、目はつむったままで、湿った肌は全体的にほの赤く、レンは急いで脱衣所から乾いたバスタオルをとってくると、それをリンに被せてから湯船からリンを抱えだす。
「軽っ・・・!」
その華奢な身体と軽さにレン驚きの声を上げる。首筋には濡れて普段より濃くなった蜂蜜色の髪が張り付いていて、
妙な感情が湧き上がったが無理やり沈め、何とかだらりとしているリンを抱えてレンは浴室を出たのだった。



「うーん・・・」
「気付いた?」
目が覚め額に乗せられた濡れタオルを持つリンにレンは優しく声をかける。
「れ、ん・・・?」
「風呂ん中で気失ってたぞ」
「えっ・・・・・・」
レンの言葉にリンはガバッと身を起こす。
「たぶん、のぼせて・・・」
「ええっ何でバスタオル一枚なの!?やぁ!ちょっとレンあっち向いててよ!!」
自分のベッドの上にいることに気付き、さらにバスタオルが被せてあるだけの状況にリンは声を張り上げる。
そして手に持つ濡れタオルをバシッとレンに投げつけ、慌ててバスタオルをきっちりと身体に巻きつけると、その上から毛布まで羽織った。

「もうそっちを向いてもイイデスカ?」
「う、うん!」
言葉を途中で折られて不機嫌そうなレンと、うつむいたリンが向き合う。
「長風呂してっからのぼせたみたいだぞ」
「うん・・・その、ありがと・・・・・・。ねぇ、レン」
「んー」
「その、えっと、・・・見た?」
「そりゃ、まあ、ちょとだけって、リン何で泣くの!?」
運ぶときの不可抗力だからしょうがないのだが、レンに自分の裸を見られたことが目を背きたい事実だった。
しかもそれが、レンの好みとはほど遠い体型で、豆乳もダイエットもまだ効果が出ていない状態なのだ。
泣くほどのことではない、と頭ではわかっていてもリンの瞳からは虚しい涙が零れた。

「悪い、本当に見たことは悪いと思ってるから」
突然のリンの涙に慌てたレンは、申し訳なさそうに謝りながら、優しい手つきでリンの頭を撫でる。

「違うの・・・」
「え?」
蚊の鳴くようなリンの言葉にレンが困惑する。リンは顔を上げ、涙で濡れた瞳でレンを見つめる。

「違うの・・・ねぇレン、あたしのこと嫌わないで!」
「は?」
レンのほうが嫌われてもおかしくない状況なのに、噛み合わない会話にレンは益々戸惑う。

「あたし、がんばってスタイルよくなるようにダイエットするし、胸だって大きくなるように努力するから!だから、お願い・・・」

「待て、待て待て!スタイルとか胸とかどういう意味?」

「えっ!?だってレン胸の大きな女の子が好きなんでしょ・・・?」
きょとんとしているリンの発言に、レンは額を押さえてハァーと大きくため息を吐く。
なぜそんな発想になったのか皆目検討がつかないらしい。

「どうして、そうなるのさ?」
「だって、あの本・・・」
リンが向かいのベッドの下を指すのと、レンの顔が引きつったのはほぼ同時だった。

「えっと・・・見た、の?」
コクンとリンが頷くと、レンは二度目の大きなため息を吐いた。

「いや、別に、あれは・・・なんっつーか、ああいうのが好きなわけじゃなくて」
「へぇっ・・・?」
「ああいう本は軒並みあんなっつーか・・・ってかリン、それであんなにご飯減らしてた?」
「・・・ご飯、気付いてたの?」
「まあ、ね」
気まずい空気が流れて、お互い口を閉ざす。なんとなく二人とも後ろめたいのだ。
時間に換算すればわずかなのだが、とても長く感じた沈黙を先に破ったのはリンのほうだった。

「その・・・やっぱり大きいほうがいいの、胸?」
おそるおそる、と言った感じでレンに尋ねる。
その声には不安の色とわずかだが興味の色が潜んでいる。

「うーん、まあ、一概には言えないけど」
レンは慎重に言葉を選んでリンに告げる。

「やっぱりそう、なんだ・・・」
レンのセリフにしゅんとしながら、リンはタオルの上から自分の胸に触れる。
タオルの上からだと、その僅かな膨らみはまったくわからない。
虚しくてリンは唇を固く結んで、眉を顰める。
メイコやミクと違って胸もスタイルもよくない、色気のない自分の身体はとても惨めで、不甲斐なさと悲しい気持ちがうずまいて、泣きたくなった。

「あのさ、リン」
「・・・うん?」
リンの隣に腰掛けてきたレンはリンの顔を見ずに話しかける。

「関係ないから。胸とか、スタイルとか」
リンが疑問の眼差しでレンを見ると、そっと手首を掴まれ、そのまま指が絡められた。
レンの手から伝わる熱が、先程まで火照っていたはずなのに、今じゃすっかり冷めてしまった身体に心地よく染みる。
レンはというと、まだリンと目は合わせないままでいるが、その横顔が普段より赤くなっているのは間違いなかった。

「オレが一番好きなのは、そのままのリンだから。無理してダイエットとか、その、、、胸大きくすることないから、って!何だよ急に」
レンがまだ話途中なのに、リンが急に抱きついてきたため、支えきれずに二人はベッドになだれ込む。

「うふふ、なんか嬉しくて」
レンを見下ろすリンの顔からは不安の色は消えていて、代わりに照れくさそうに、でも嬉しそうに笑っていた。

「・・・・・・リン、今の格好わかってる?」
「えっ、あっ・・・!」
レンに指摘されて、リンは自分がバスタオル一枚だけの姿であることに気付いたようだった。
慌ててレンから離れようとしたが、一足遅くその腕を掴まれ、引き寄せられたかと思うと、形勢が逆転し、今度はレンを見上げるようになる。

「ねえ、胸が大きくなるのって揉むのもいいらしいよ」
「そ、それって・・・!」
「手伝ってあげるよ」
そう言って意地悪な微笑みを浮かべたレンは、リンの手を頭上で拘束すると、怯えて身を硬くするリンに深い口付けを落としたのだった。